定家『明月記』の天文記録―古天文学による解釈
2012年7月9日 読書
定家『明月記』の天文記録-古天文学による解釈-
著者名斉藤国治著
出版社東京 慶友社
興味は,超新星についての記述を読みたくて,アンチョコとして
期待したのだけれど,それ以上に色々楽しいものがあった.
これと,国書刊行会版『明月記』を並べて,原文を拾い読みして.
まず第一に,客星記述8つの内で超新星は3つのみ.
定家の生れる前の事件なので大変簡素な引用があるだけ.
なんだか,ノートを貸したら,借りたやつの方が高い点数取ったみたいな.
そして,星の接近を「合」,もっと接近すると「犯」というとか
そういうのは凶兆としてみられることが多かったこととか
月食も,曇って見えないといいことだったらしいとか
太陰暦の暦のためには,初月(新月のあと最初に見える月)の
観測が大事なこととか……
で,何より,月を眺めるのを楽しんでいた様子が
陰陽師の安倍泰俊の話を聞いて書きとめてる様子とか
面白いったらない.しかし,読み難いのもたいしたもんで
いや,漢文の素養無いからてのもあるが,漢文でもない独特の文で.
◇メモ
98.客星出現例5 一條院寛弘三年四月二日、癸酉、夜以降騎官中有大客星、如螢惑、
1006年5月1日 光明動耀、連夜正見南方、或云、騎陣将軍變本體増光歟、
超新星
| 「騎官」と「騎陣将軍星」とは中国の星名である。すなわち、
| 「騎官」とはケンタウロス座のη、κなどと、おおいぬ座のα、βなどを服務星宿のこと。
| 「騎陣将軍星」とは騎官のすぐ南側にある独立星でおおかみ座のκ1、κ2星のこと。
| 図76はこれらをふくむ星の並びを示している。ただし,1950年座標表示である。
| それらはみな赤緯が-45°のあたりの星であるから、京都あたりで見ると、
| 南中時でも高度はやっと10度にしかならない。南天に低く見える星座である。
| それがある夜突然に大きく輝き出し、その色は火星に似て赤色だという。
| あるいは騎陣将軍星自身が増光したのかと疑っている。
| じつはこれは超新星の爆発であったから、この記事の表現はもっとも適切である。
| おそらく司天官の筆になるものであろう。
| 中国にも記録があって、『宋史』「天文志・九」中の「景星」の項に
| ○ 景徳三年四月戌虎(1006年5月6日)周白星表れる。氏(てんびん座)の南、
| 騎官の西一度に出づ。状半月の如し。芒角あり、煌煌として物を見るべし。
| 庫楼(ケンタウルス座)の東に現われ、八月には天輪(日周運動)に従いて
| 入濁す(地平光に消滅)。これより以後、毎年十一月の辰(暁方)に東方に
| 現われて、(翌年の)八月に西南に入濁す。 %「氏」は正しくは下に横線が一本つく
| と詳細な記述がある。この超新星の古記録については、アラビア・ヨーロッパにも
| 日記が残っている。詳しくは筆者の著『古天文学の道』(原書房,1990年)の
| 第17章「客星という名の超新星」を見られたい。
| クラーク・スティブンソンの研究*(1977)によれば、この超新星は爆発の残骸として、
| 今日電波源PKS1459 41 が対応しているという。
| * Clark, D. H., and F. R. Stephenson, "Historical Supernovae", New York, 1977
99.客星出現例6 後冷泉院天喜二年四[五]月中旬以降丑時、客星出觜参度、見東方、孛天關星、
超新星 大如歳星、
1054年5月20日~29日[6月19日~28日]
| 「觜し」も「参しん」も中国星宿二十八宿中の星宿名であり、ともにオリオン座に属している。
| 中国にはさらに詳しい独立記事がある。『宋史』「天文志・九」の「客星」の項に、
| ○ 至和元年五月己丑(1054年7月4日)、(客星)天関(おうし座ゼータ星)の
| 東南[西北]に出づ。数寸なるべし。歳余にして滅す。
| また『宋史』「仁宋本紀」には、
| ○ 嘉祐元年三月辛未(1056年4月6日)、司天監言う、至和元年五月(1054年6月)より、
| 客星晨(暁方)に出で、天関を守れり。ここに至って没す。
| さらに『唐会要』に
| ○ 嘉祐元年三月(1056年4月)司天監言う。客星没す。これ客去るの兆しなり。はじめ
| 至和元年五月の晨に東方に出でて天関を守る。昼も現われて太白の如し。芒角四出し、
| 色は赤白。凡そ現われること二十三日。
| とある。これらの記述を総合すると、光度最盛期には23日間も昼に見えて、太白のごとく
| または歳星のごとく輝き、やがて22ヶ月ののちに消滅したことになる。出現場所は
| 天関星(おうし座のゼータ星)ζTau(3.m0)の近くであった。
| 以上はこの客星の実見当時の記録であるが、それから数百年後の十八世紀末のころ、
| この天関星の北西やく1°のところにガス状の天体が見つかった。当時の望遠鏡で見ると
| 「ざりがに」のような格好に見えたので、今日「かに星雲」(Crab nebula)の愛称で
| 呼ばれている。このかに星雲が1054年に爆発した超新星の後世における姿というのである。
| ただ記事にある客星と現在の爆発残骸とを同一天体と認めるためには、『明月記』の
| 記述中の「四月」を「五月」と読みかえること、また『宋史・天文志』の「天関の東南」
| とあるのを「西北」と読みかえる必要がある。この読みかえの正否については
| 当時暫く議論があったが、いまでは妥当な読みかえとして認められている。これらについての
| 詳しい解説は、筆者の論文「明月記の中の一客星――AD1054年の超新星について――」
| 『古代文化』第45巻3号(京都、1991)に述べてある。
| 中国・日本以外の文献としては、この年は朝鮮では高麗の文宗八年にあたるが
| 不思議なことにこの客星記録は見当たらない。| またヨーロッパの天文史家らは、
| この超新星の爆発記事を中国と日本だけに独占されては| たまらないといって懸命に
| 探したけれども、今のところヨーロッパからはこの時の超新星の記録はひとつも
| 発見されていない.
| ずっとあとになってそれらしい記録がアラビアから発掘された。記録者はバグダッドの
| イブン・ブラトンという医師で,1054年ごろにコンスタンチノープルに住んでいたという。
| 彼の医学上の記述の中に、
| ○ われわれの時代の有名な厄病のひとつは、あの素晴らしい星がヘジラの446年に
| ふたご座に現われた時のものである。その年の秋には14,000人もの死者が出て
| コンスタンチノープルのすべての墓地がいっぱいになり、ルカ協会にも
| 埋葬されたほどである。
| とある。ここで「ヘジラの年」とはイスラム教の暦年で、ヘジラの446年は
| A.D.1054年4月12日から1055年4月1日までの一年間にあたるという。
| また「かに星雲」は本当はおうし座の中にあるが、そこは隣のふたご座と境を接している。
| 従ってこの記事は1054年の超新星爆発の記事と認めてよかろう。この記事の発掘者である
| 天文史家ブレッチャーたちは、「この記事そのものは1054年の超新星爆発について
| いままでの知識に何も新しいデータを附け加えるものではないが、中世イスラム世界の
| 医学上の文書などをさらに調べることで、古天文学上価値ある別の発見が期待できよう」と
| 述べている(1979)。
| その後アメリカのアリゾナ州のアメリカ原住民の洞窟の壁面に、三日月型と円盤状の
| 陰刻がいくつか発見されて、これも超新星を壁面に描いたのではないかと提言されている。
| しかし、画像の描かれた年月日の確定が困難なのでかなり疑問が残ると思われる。
101.客星出現例8 高倉院治承五年六月廿五日、庚午、戌時、客星見北方,近王良星守傳舎星、
1181年8月7日
%超新星
| 『明月記』の他にも記録があり、『吾妻鏡』2には、
| ○ 六月廿五日庚午、戌の刻、客星艮の方に見わる。鎮星の色にて青赤。芒角あり。
| これ寛弘三年(1006年)出現の後に例なしと、うんぬん。
| 中国には南北両朝に記録があり、
| ○ 孝宗・淳熙八年六月己巳(1181年6月6日)(客星)奎宿(アンドロメダ座)に出づ。
| 伝舎星を犯す。明年正月癸酉(1182年2月6日)に至る。
| 凡そ一百八十五日にて始めて滅す。(宋史・天文志・九)
| ○ 世宗・大定廿一年六月甲戌(1181年8月11日)客星華蓋(カシオペア座)に見わる。
| 凡そ百五十有六日にて滅す。(金史・天文志)
| 朝鮮には記録見当たらず。
| ところで、王良とはカシオペヤ座のα、β、ηなどを含む5星、伝舎とはカシオペヤ座の
| RU星などの9星、華蓋とはカシオペヤ座φ星などの7星からなる星宿である。これらを
| 79図に示す。かなり広い天域に及ぶから、位置の特定はむずかしい。この客星を超新星と
| 推定すると、その残骸の候補者として6個の電波源が挙げられる。そのうちの一つ3C58が
| 第一の候補といわれており、その位置を図79の中に◎で示しておいた。
| 以上の8例が泰俊朝臣から示された客星出現例であり、定家がこれらを『明月記』に
| 記入しておいたことがいかに現代天文学の発展に資したか計りしれないものがある。
| 正に古記録と現代天文学とのドッキングである。なお、歴史上の超新星を研究した著書として
| D. H. Clark and F. R. Stephenson, Historical Supernovae, New York, 1977.
| 王徳昌・徐振插『歴史超新星』北京,1982
| %插の字のつくり,ノの下に点三つ,その下に臼
| が参考になる。後者は前者の全面的翻訳に幾分の注を加えたものである。
◇追記 関連日記
明月記に記述された超新星(かに星雲M1)
http://felis.diarynote.jp/201206201901413207/
%国立国会図書館デジタル資料へのポインタほか.
著者名斉藤国治著
出版社東京 慶友社
興味は,超新星についての記述を読みたくて,アンチョコとして
期待したのだけれど,それ以上に色々楽しいものがあった.
これと,国書刊行会版『明月記』を並べて,原文を拾い読みして.
まず第一に,客星記述8つの内で超新星は3つのみ.
定家の生れる前の事件なので大変簡素な引用があるだけ.
なんだか,ノートを貸したら,借りたやつの方が高い点数取ったみたいな.
そして,星の接近を「合」,もっと接近すると「犯」というとか
そういうのは凶兆としてみられることが多かったこととか
月食も,曇って見えないといいことだったらしいとか
太陰暦の暦のためには,初月(新月のあと最初に見える月)の
観測が大事なこととか……
で,何より,月を眺めるのを楽しんでいた様子が
陰陽師の安倍泰俊の話を聞いて書きとめてる様子とか
面白いったらない.しかし,読み難いのもたいしたもんで
いや,漢文の素養無いからてのもあるが,漢文でもない独特の文で.
◇メモ
98.客星出現例5 一條院寛弘三年四月二日、癸酉、夜以降騎官中有大客星、如螢惑、
1006年5月1日 光明動耀、連夜正見南方、或云、騎陣将軍變本體増光歟、
超新星
| 「騎官」と「騎陣将軍星」とは中国の星名である。すなわち、
| 「騎官」とはケンタウロス座のη、κなどと、おおいぬ座のα、βなどを服務星宿のこと。
| 「騎陣将軍星」とは騎官のすぐ南側にある独立星でおおかみ座のκ1、κ2星のこと。
| 図76はこれらをふくむ星の並びを示している。ただし,1950年座標表示である。
| それらはみな赤緯が-45°のあたりの星であるから、京都あたりで見ると、
| 南中時でも高度はやっと10度にしかならない。南天に低く見える星座である。
| それがある夜突然に大きく輝き出し、その色は火星に似て赤色だという。
| あるいは騎陣将軍星自身が増光したのかと疑っている。
| じつはこれは超新星の爆発であったから、この記事の表現はもっとも適切である。
| おそらく司天官の筆になるものであろう。
| 中国にも記録があって、『宋史』「天文志・九」中の「景星」の項に
| ○ 景徳三年四月戌虎(1006年5月6日)周白星表れる。氏(てんびん座)の南、
| 騎官の西一度に出づ。状半月の如し。芒角あり、煌煌として物を見るべし。
| 庫楼(ケンタウルス座)の東に現われ、八月には天輪(日周運動)に従いて
| 入濁す(地平光に消滅)。これより以後、毎年十一月の辰(暁方)に東方に
| 現われて、(翌年の)八月に西南に入濁す。 %「氏」は正しくは下に横線が一本つく
| と詳細な記述がある。この超新星の古記録については、アラビア・ヨーロッパにも
| 日記が残っている。詳しくは筆者の著『古天文学の道』(原書房,1990年)の
| 第17章「客星という名の超新星」を見られたい。
| クラーク・スティブンソンの研究*(1977)によれば、この超新星は爆発の残骸として、
| 今日電波源PKS1459 41 が対応しているという。
| * Clark, D. H., and F. R. Stephenson, "Historical Supernovae", New York, 1977
99.客星出現例6 後冷泉院天喜二年四[五]月中旬以降丑時、客星出觜参度、見東方、孛天關星、
超新星 大如歳星、
1054年5月20日~29日[6月19日~28日]
| 「觜し」も「参しん」も中国星宿二十八宿中の星宿名であり、ともにオリオン座に属している。
| 中国にはさらに詳しい独立記事がある。『宋史』「天文志・九」の「客星」の項に、
| ○ 至和元年五月己丑(1054年7月4日)、(客星)天関(おうし座ゼータ星)の
| 東南[西北]に出づ。数寸なるべし。歳余にして滅す。
| また『宋史』「仁宋本紀」には、
| ○ 嘉祐元年三月辛未(1056年4月6日)、司天監言う、至和元年五月(1054年6月)より、
| 客星晨(暁方)に出で、天関を守れり。ここに至って没す。
| さらに『唐会要』に
| ○ 嘉祐元年三月(1056年4月)司天監言う。客星没す。これ客去るの兆しなり。はじめ
| 至和元年五月の晨に東方に出でて天関を守る。昼も現われて太白の如し。芒角四出し、
| 色は赤白。凡そ現われること二十三日。
| とある。これらの記述を総合すると、光度最盛期には23日間も昼に見えて、太白のごとく
| または歳星のごとく輝き、やがて22ヶ月ののちに消滅したことになる。出現場所は
| 天関星(おうし座のゼータ星)ζTau(3.m0)の近くであった。
| 以上はこの客星の実見当時の記録であるが、それから数百年後の十八世紀末のころ、
| この天関星の北西やく1°のところにガス状の天体が見つかった。当時の望遠鏡で見ると
| 「ざりがに」のような格好に見えたので、今日「かに星雲」(Crab nebula)の愛称で
| 呼ばれている。このかに星雲が1054年に爆発した超新星の後世における姿というのである。
| ただ記事にある客星と現在の爆発残骸とを同一天体と認めるためには、『明月記』の
| 記述中の「四月」を「五月」と読みかえること、また『宋史・天文志』の「天関の東南」
| とあるのを「西北」と読みかえる必要がある。この読みかえの正否については
| 当時暫く議論があったが、いまでは妥当な読みかえとして認められている。これらについての
| 詳しい解説は、筆者の論文「明月記の中の一客星――AD1054年の超新星について――」
| 『古代文化』第45巻3号(京都、1991)に述べてある。
| 中国・日本以外の文献としては、この年は朝鮮では高麗の文宗八年にあたるが
| 不思議なことにこの客星記録は見当たらない。| またヨーロッパの天文史家らは、
| この超新星の爆発記事を中国と日本だけに独占されては| たまらないといって懸命に
| 探したけれども、今のところヨーロッパからはこの時の超新星の記録はひとつも
| 発見されていない.
| ずっとあとになってそれらしい記録がアラビアから発掘された。記録者はバグダッドの
| イブン・ブラトンという医師で,1054年ごろにコンスタンチノープルに住んでいたという。
| 彼の医学上の記述の中に、
| ○ われわれの時代の有名な厄病のひとつは、あの素晴らしい星がヘジラの446年に
| ふたご座に現われた時のものである。その年の秋には14,000人もの死者が出て
| コンスタンチノープルのすべての墓地がいっぱいになり、ルカ協会にも
| 埋葬されたほどである。
| とある。ここで「ヘジラの年」とはイスラム教の暦年で、ヘジラの446年は
| A.D.1054年4月12日から1055年4月1日までの一年間にあたるという。
| また「かに星雲」は本当はおうし座の中にあるが、そこは隣のふたご座と境を接している。
| 従ってこの記事は1054年の超新星爆発の記事と認めてよかろう。この記事の発掘者である
| 天文史家ブレッチャーたちは、「この記事そのものは1054年の超新星爆発について
| いままでの知識に何も新しいデータを附け加えるものではないが、中世イスラム世界の
| 医学上の文書などをさらに調べることで、古天文学上価値ある別の発見が期待できよう」と
| 述べている(1979)。
| その後アメリカのアリゾナ州のアメリカ原住民の洞窟の壁面に、三日月型と円盤状の
| 陰刻がいくつか発見されて、これも超新星を壁面に描いたのではないかと提言されている。
| しかし、画像の描かれた年月日の確定が困難なのでかなり疑問が残ると思われる。
101.客星出現例8 高倉院治承五年六月廿五日、庚午、戌時、客星見北方,近王良星守傳舎星、
1181年8月7日
%超新星
| 『明月記』の他にも記録があり、『吾妻鏡』2には、
| ○ 六月廿五日庚午、戌の刻、客星艮の方に見わる。鎮星の色にて青赤。芒角あり。
| これ寛弘三年(1006年)出現の後に例なしと、うんぬん。
| 中国には南北両朝に記録があり、
| ○ 孝宗・淳熙八年六月己巳(1181年6月6日)(客星)奎宿(アンドロメダ座)に出づ。
| 伝舎星を犯す。明年正月癸酉(1182年2月6日)に至る。
| 凡そ一百八十五日にて始めて滅す。(宋史・天文志・九)
| ○ 世宗・大定廿一年六月甲戌(1181年8月11日)客星華蓋(カシオペア座)に見わる。
| 凡そ百五十有六日にて滅す。(金史・天文志)
| 朝鮮には記録見当たらず。
| ところで、王良とはカシオペヤ座のα、β、ηなどを含む5星、伝舎とはカシオペヤ座の
| RU星などの9星、華蓋とはカシオペヤ座φ星などの7星からなる星宿である。これらを
| 79図に示す。かなり広い天域に及ぶから、位置の特定はむずかしい。この客星を超新星と
| 推定すると、その残骸の候補者として6個の電波源が挙げられる。そのうちの一つ3C58が
| 第一の候補といわれており、その位置を図79の中に◎で示しておいた。
| 以上の8例が泰俊朝臣から示された客星出現例であり、定家がこれらを『明月記』に
| 記入しておいたことがいかに現代天文学の発展に資したか計りしれないものがある。
| 正に古記録と現代天文学とのドッキングである。なお、歴史上の超新星を研究した著書として
| D. H. Clark and F. R. Stephenson, Historical Supernovae, New York, 1977.
| 王徳昌・徐振插『歴史超新星』北京,1982
| %插の字のつくり,ノの下に点三つ,その下に臼
| が参考になる。後者は前者の全面的翻訳に幾分の注を加えたものである。
◇追記 関連日記
明月記に記述された超新星(かに星雲M1)
http://felis.diarynote.jp/201206201901413207/
%国立国会図書館デジタル資料へのポインタほか.
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