杉井光『神様のメモ帳 (9)』電撃文庫
読み終えたとき,涙がじわじわ流れてしまった.
完結してしまったんだな~だか,アリスにか,
この物語を読み始めてから今までの年月にか
理由の判らない,でも嫌じゃない涙だった.
神メモとしては,叙述が微妙に異色な気がする.
たしかに,163頁の長机に微かな違和感はあったが
313頁で「えっ?」と思うまで,その可能性なんて
まったく考えていなかった.こんなミスリードは
これまで無かったような.
何でもアリな杉井光!の上に,MW文庫の作品もあるから
アリスの出生の秘密というのに驚かなかったけれども
絵空事的に受け止めているから衝撃が少ないだけかも.
◇メモ
P.14 様々な事件を文章にして残す過程で学んだのは、
どんな語り手であってもけっきょく自分の物語しか
語れないということだった。たとえ血を流したのが
僕でなくても、僕の目と耳で事実を受け取り、僕の
手で文字に置き換えた以上、それは僕の物語なのだ。
逆に言えば僕は自分自身というフレームの中に
捉えられる事柄しか語ることができない。僕と同じ
痛み、歪み、哀しみを抱いている人間しか描けないのだ。
今、ようやく僕は語ろうと思う。
凍りついた部屋に閉じこもる探偵の、最後の事件。
僕と同じように母親を生き返らせようとした少女の、
むなしい戦いの記録。
彼女がなぜあのたったひとつの冴えたやりかたを
選ばなければならなかったのか、それによってだれが笑い、
誰が涙し、なにが損なわれ、あるいは忘れ去られ、血を吸った
大地にどんな草が芽吹き、花を咲かせたのか――
今の僕になら、語る資格があるはずだ。
なぜって、僕もまたアリスを喪ったのだから。
P.22 紫苑寺有子、通称アリス。
P.42 『アート系の最先端を走るカリスマデザイナー兼モデル
紫苑寺茉梨 美のすべてを語る』
P.59 「――こ、これ、フランキ・ワティエのアイスクリームじゃないか!
日本には出店してないはずなのに」
Wilfried Wattier et Frankie Robin をどう略したのやら…….
P.110 『東新宿にある「アスタ・タタリクス」という会社に11時に行くこと。
受付の電話で藤島鳴海の名前を出せば通してもらえるように
なっている。説明が面倒なのでどういう用件かはあちらで聞くように』
P.110 帰り際に渡された、プラスチックらしき素材の分厚い名刺には
P.155 「……鳴海くん、起きてる?」
女性の声がした。僕はベッドから下りてドアに近づく。
白いブラウスの肩と長い黒髪に縁取られたシルエットが、
夜間灯を背にして窓に浮かんでいる。
「茉梨さん?どうしたんですか」
「鳴海くんが食事もらってないって聞いたから、……持ってきた」
「あ、すみません、ありがとうございます」
P.157 「鳴海くんは、その……」言葉がしばらく吐息の靄にさまよう。
「有子のこと、ほんとうに心配してくれてるんだね」
「え? え、ええ。まあ」
P.158 「鳴海くんは――」
黒髪が暗がりの中で泳ぐ。彼女が顔をそむけたのだ。
迷いを含んだ声も遠くなる。
「有子と、その……離れたくない、のかな」
「いや、僕の問題じゃ」
P.159 「あの、ね。有子も」
「……はい?」
「有子も、きっと……」
言葉の端が暗がりにまぎれてしまう。
僕は目をしばたたき、闇に沈んだ彼女の顔をうかがう。
やっぱりなにか変だ。
P.163 返事の代わりに、ドアの向こうからなにかが軋む耳障りな音が
聞こえてきた。唾を飲み込んでドアに駆け寄り、覗き窓から見ると
紫苑寺螢一が床に積み上げられた長机を壁際に
押しやっているところだった。
P.165 「――私は君のことを気にいっています」
信号待ちのときに紫苑寺螢一がぽつりと言った。
P.203 わかった。
あの夜。なにがあったのかがわかった。なにもかもがあまりにも
明白だった。啓示はいくつもあった。ひとつ残らず僕の目の前に
晒されていた。ただ愚かな僕が目を閉じていただけだ。
P.208 『やけに自信ありげだな。どうせお前から取り立てるから、
アリスがどう考えてようと俺にはどうでもいいんだが』と
四代目は素っ気なく言う。『連れ戻した後のことは考えてるのか。
あいつのやったことが表沙汰になったら――』
「アリスは殺してません」
だいぶ長い沈黙があった。四代目だって言葉に迷うことくらいあるのだ。
『――そうか。ならいい』
なにも訊いてこなかった。ほんとうにありがたかった。
この人が義兄でいてくれてよかった、と思う。
P.224 なんで死のうとしてるんだ。馬鹿じゃないのか。探偵としての
本領を踏み外した?そんなのどうだっていいだろ。生きてる以上に
大事なことなんてなにひとつないはずだ。
僕のその思考は、虚無感の中で白々しくこだました。
生きている以上に大事なことを見つけてしまった連中を
これまでたくさん見てきたからだ。それ自体は正しいことでも
間違っていることでもない。幸せでも不幸でもない。
人間が進化しすぎて余計なことをたくさん考えるようになった
証拠に過ぎない。
アリスはすでに決めてしまった。だから、これは僕の問題だ。
僕がアリスに生きていてほしいのだ。僕の隣で笑ったり泣いたり
怒ったり馬鹿にしたりしていてほしいのだ。
P.249 四冊目、『星ぼしの荒野から』の訳者あとがきを読み通したとき、
なにかが僕の中に引っかかった。違和感の正体がわからず、
もう一度読んでみる。ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアこと
アリス・シェルドンの来歴や、各短編の解説だ。今の僕にとって
意味のある記述なんて出てくるはずもなかった。それなのに
僕は三度ページをめくり直した。
ようやく気づき、本を閉じて身を起こす。
すべてがつながる。
なにもかもが透き通って澄み渡り、地平に煌々と燃え、僕の目を灼く。
やりきれなさと切なさが僕の胸に押し寄せてくる。
それで――なのか。
それで、彼女は選んだ。あの、たったひとつの冴えたやりかたを。
P.313 「真夜中、警報が鳴る直前、僕の部屋にアリスが茉梨さんの
ふりしてやってきたってこと?」
P.314 「ああ、後からよく思い出してみてようやく気づいたんだけどさ。
あのとき茉梨さんは、ええとつまり変装したアリスは、こう言ってたよね。
『有子は螢一さんが育てた弟子だ』って」
アリスはヴェールの奥の暗がりで目をしばたたく。
「そ、それがどうしたんだい」
「茉梨さんは螢一さんがアリスと頻繁に接触してたってことを
知らないんだよ。紫苑寺家にいた頃にアリスと会っていたのは
自分と吾郎先生だけだろう、って言ってたから」
P.250 やってやる。
読み終えたとき,涙がじわじわ流れてしまった.
完結してしまったんだな~だか,アリスにか,
この物語を読み始めてから今までの年月にか
理由の判らない,でも嫌じゃない涙だった.
神メモとしては,叙述が微妙に異色な気がする.
たしかに,163頁の長机に微かな違和感はあったが
313頁で「えっ?」と思うまで,その可能性なんて
まったく考えていなかった.こんなミスリードは
これまで無かったような.
何でもアリな杉井光!の上に,MW文庫の作品もあるから
アリスの出生の秘密というのに驚かなかったけれども
絵空事的に受け止めているから衝撃が少ないだけかも.
◇メモ
P.14 様々な事件を文章にして残す過程で学んだのは、
どんな語り手であってもけっきょく自分の物語しか
語れないということだった。たとえ血を流したのが
僕でなくても、僕の目と耳で事実を受け取り、僕の
手で文字に置き換えた以上、それは僕の物語なのだ。
逆に言えば僕は自分自身というフレームの中に
捉えられる事柄しか語ることができない。僕と同じ
痛み、歪み、哀しみを抱いている人間しか描けないのだ。
今、ようやく僕は語ろうと思う。
凍りついた部屋に閉じこもる探偵の、最後の事件。
僕と同じように母親を生き返らせようとした少女の、
むなしい戦いの記録。
彼女がなぜあのたったひとつの冴えたやりかたを
選ばなければならなかったのか、それによってだれが笑い、
誰が涙し、なにが損なわれ、あるいは忘れ去られ、血を吸った
大地にどんな草が芽吹き、花を咲かせたのか――
今の僕になら、語る資格があるはずだ。
なぜって、僕もまたアリスを喪ったのだから。
P.22 紫苑寺有子、通称アリス。
P.42 『アート系の最先端を走るカリスマデザイナー兼モデル
紫苑寺茉梨 美のすべてを語る』
P.59 「――こ、これ、フランキ・ワティエのアイスクリームじゃないか!
日本には出店してないはずなのに」
Wilfried Wattier et Frankie Robin をどう略したのやら…….
P.110 『東新宿にある「アスタ・タタリクス」という会社に11時に行くこと。
受付の電話で藤島鳴海の名前を出せば通してもらえるように
なっている。説明が面倒なのでどういう用件かはあちらで聞くように』
P.110 帰り際に渡された、プラスチックらしき素材の分厚い名刺には
P.155 「……鳴海くん、起きてる?」
女性の声がした。僕はベッドから下りてドアに近づく。
白いブラウスの肩と長い黒髪に縁取られたシルエットが、
夜間灯を背にして窓に浮かんでいる。
「茉梨さん?どうしたんですか」
「鳴海くんが食事もらってないって聞いたから、……持ってきた」
「あ、すみません、ありがとうございます」
P.157 「鳴海くんは、その……」言葉がしばらく吐息の靄にさまよう。
「有子のこと、ほんとうに心配してくれてるんだね」
「え? え、ええ。まあ」
P.158 「鳴海くんは――」
黒髪が暗がりの中で泳ぐ。彼女が顔をそむけたのだ。
迷いを含んだ声も遠くなる。
「有子と、その……離れたくない、のかな」
「いや、僕の問題じゃ」
P.159 「あの、ね。有子も」
「……はい?」
「有子も、きっと……」
言葉の端が暗がりにまぎれてしまう。
僕は目をしばたたき、闇に沈んだ彼女の顔をうかがう。
やっぱりなにか変だ。
P.163 返事の代わりに、ドアの向こうからなにかが軋む耳障りな音が
聞こえてきた。唾を飲み込んでドアに駆け寄り、覗き窓から見ると
紫苑寺螢一が床に積み上げられた長机を壁際に
押しやっているところだった。
P.165 「――私は君のことを気にいっています」
信号待ちのときに紫苑寺螢一がぽつりと言った。
P.203 わかった。
あの夜。なにがあったのかがわかった。なにもかもがあまりにも
明白だった。啓示はいくつもあった。ひとつ残らず僕の目の前に
晒されていた。ただ愚かな僕が目を閉じていただけだ。
P.208 『やけに自信ありげだな。どうせお前から取り立てるから、
アリスがどう考えてようと俺にはどうでもいいんだが』と
四代目は素っ気なく言う。『連れ戻した後のことは考えてるのか。
あいつのやったことが表沙汰になったら――』
「アリスは殺してません」
だいぶ長い沈黙があった。四代目だって言葉に迷うことくらいあるのだ。
『――そうか。ならいい』
なにも訊いてこなかった。ほんとうにありがたかった。
この人が義兄でいてくれてよかった、と思う。
P.224 なんで死のうとしてるんだ。馬鹿じゃないのか。探偵としての
本領を踏み外した?そんなのどうだっていいだろ。生きてる以上に
大事なことなんてなにひとつないはずだ。
僕のその思考は、虚無感の中で白々しくこだました。
生きている以上に大事なことを見つけてしまった連中を
これまでたくさん見てきたからだ。それ自体は正しいことでも
間違っていることでもない。幸せでも不幸でもない。
人間が進化しすぎて余計なことをたくさん考えるようになった
証拠に過ぎない。
アリスはすでに決めてしまった。だから、これは僕の問題だ。
僕がアリスに生きていてほしいのだ。僕の隣で笑ったり泣いたり
怒ったり馬鹿にしたりしていてほしいのだ。
P.249 四冊目、『星ぼしの荒野から』の訳者あとがきを読み通したとき、
なにかが僕の中に引っかかった。違和感の正体がわからず、
もう一度読んでみる。ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアこと
アリス・シェルドンの来歴や、各短編の解説だ。今の僕にとって
意味のある記述なんて出てくるはずもなかった。それなのに
僕は三度ページをめくり直した。
ようやく気づき、本を閉じて身を起こす。
すべてがつながる。
なにもかもが透き通って澄み渡り、地平に煌々と燃え、僕の目を灼く。
やりきれなさと切なさが僕の胸に押し寄せてくる。
それで――なのか。
それで、彼女は選んだ。あの、たったひとつの冴えたやりかたを。
P.313 「真夜中、警報が鳴る直前、僕の部屋にアリスが茉梨さんの
ふりしてやってきたってこと?」
P.314 「ああ、後からよく思い出してみてようやく気づいたんだけどさ。
あのとき茉梨さんは、ええとつまり変装したアリスは、こう言ってたよね。
『有子は螢一さんが育てた弟子だ』って」
アリスはヴェールの奥の暗がりで目をしばたたく。
「そ、それがどうしたんだい」
「茉梨さんは螢一さんがアリスと頻繁に接触してたってことを
知らないんだよ。紫苑寺家にいた頃にアリスと会っていたのは
自分と吾郎先生だけだろう、って言ってたから」
P.250 やってやる。
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